「グローバル化」が流行りですが…

この数年、教育分野でも何かというと「グローバル化」が取り上げられます。私たちもまるで、何か、「グローバル化」に乗り遅れたらたいへんな事態になるとも思われる新時代の枕詞(まくらことば)であるかのように「グローバル化」という言葉を使っています。

しかし、ちょっと立ち止まって、「グローバル化」の意味をもう一度、吟味することも必要かも知れません。

「国際化」との違い

グローバル化」という言葉が流行る前には「国際化」がしきりに言われました。こちらは、文字どおり国家と国家との間のことに適用されますから、わりと分かりやすい言葉です。日米間のこと、日中間のことなど「国際=くにのきわ)」に横たわる事象です。しかし、それが多国間になると、より複雑な関係になり、地球上の多くの人々が関わることとなれば、「グローバル」なことだと考えなくてはなりません。

こうした言葉は、たいていの場合、政治・経済が牽引しますから、「国際化」とは歴史的には西欧などの植民地主義によって引き起こされた政治・経済活動がその言葉を生み出したといってもいいかも知れません。しかし、「グローバル化」は、それとは違い、地球規模での政治・経済活動の活発化によって、否応なく生じてきた現象と言うほうが当たっているでしょう。

そして、国境を越えた教育交流活動についても同様なことが見て取れるのです。

教育交流分野での「グローバル化」とは?

以前から、大学が「秋入学」にすれば海外からもっと留学生が来るようになる、といった制度論的な国際教育交流論議には私は組してきませんでした。なぜならば、本当に留学したい人は半年待たなければならないことくらいで留学を思いとどまったりはしないからです。それよりも、海外からの学生か、その国の学生かなどには関わりなく、教育機関として、どのような優れた教育を提供できるか否かが留学生を増やすための最大のポイントであることくらい、ちょっと考えれば誰にだって分かるはずです。

したがって、東京大学が「秋入学」を言い出したときにも、「東大は東大で自由に進めるのがいいのではないか」くらいに思ったのですが、何と、あちこちの大学が我も我もと「秋入学」導入の検討に入りだしたときには、正直に言うと、半ば呆れてながめていました。

そして、東大が「秋入学」をやめて、「4学期制」の検討に入ると発表したとき、かなりの大学は「東大に振り回された」と嘆きました。

なぜ、それほど東大を追随したがるのか、私には理解できないのです。大学にはそれぞれの個性があっていいのであり、東大に右へ倣えでは、どのような小さな分野においてさえも、そもそも東大を追い越すことなど出来っこないのですから。

これは、決して「グローバル化」とは呼べない話ではないでしょうか。

非現実的な、どこでも「英語による授業」

「秋入学」と並んで、「英語による授業」も「グローバル化」の一つの象徴のように考えられがちです。もちろん、日本の大学が海外からより多くの留学生を受け入れて、日本語教育をスキップして専門の教育をしたり、研究を共に進めるうえで、こうした授業を設けることが無意味だというつもりはありません。

しかし、改めて考えるまでもなく、基礎教育は自国でそれぞれの留学生の多くが受けて来ていて、専門的な教育を受けようとすることが多いことを考えると、では、いったい、日本の大学が英語で教育出来るそれだけの数の教員を、どうやって揃えるのか、という疑問もわいてきます。また、留学生の90%以上がアジアから来ているわけですから、英語による教育で果たして効率的なのか、という不安もあります。

仮に英語が得意なアジアの学生だったら、英語圏に留学することを、まず考えるのではないでしょうか。そして、日本に留学するからには、仮に専門分野が理工系等の学生であっても、日本語で情報を取れなければ、教室や研究室を一歩離れたら、ほとんど何も分からなくなってしまうことは想像に難くありません。

なぜ、軽視される日本語教育

であるにもかかわらず、日本の留学生政策が語られるとき、日本語教育は得てしてらち外に置かれがちであるのは、いったいどうしたことでしょう。日本の高等教育機関の留学生の6〜7割は日本国内の日本語学校経由であるのにもかかわらず、です。そして、大学の日本語別科の充足率はきわめて低いところが多く、せっかくの海外への窓口も十分に活用されているとは到底言えない状況なのです。

それでも、必要な「グローバル化

もちろん、エネルギーのじつに96%、食料の61%を海外に依存している日本としては、それぞれの自給率を上げる工夫や努力もしつつ、しかし、諸外国・地域との協調を重視せざるを得ないわけですから、カネ、モノだけでなくヒトのグローバル化も進めなければならないというわけです。

しかし、それが、なかなか難しいことは、皆さん、よくご承知のとおりなのですが、「グローバル化」とは必ずしも一局面だけで進むものではなく、経済も技術も教育も、時間的な進捗に差があるものの、やはり相互に関わり合いながら進むものです。したがって、経済や技術がグローバル化しつつある今は、ヒトの「グローバル化」のときでもあるはずです。

そして、それを着実に進めるためには、海外から留学生を迎え入れて知日派を養成し、また、海外に日本人学生を出して、どこの人とでもことさら構えずに平然とつき合っていける若者を育てていくことこそ、日本社会が「グローバル化」するための王道だと考えるのです。