「グランド・デサイン」の描き手がいない?

国際教育交流に関心がある人たちが出会うと、どうも似たり寄ったりの嘆き節が聞かれます。

「日本の今の閉塞状況は、どうも“グランド・デザイン”を描く人がいないからなんだと思う。」

「このままでは、日本はまずい。世界から忘れ去られ、次第に消えていくのではないか。」

私も、よくこんな話を友人・知人としがちです。

しかし、改めて振り返ってみると、こういった話は、1980年代末くらいから国際交流に関わりを持つ友人・知人間でしていた記憶があります。

だいいち、この日本社会のグランド・デザインなど、そうそう簡単に描けるものではないし、これまでにだって描かれたためしがあったのかどうかも定かではありません。

それに類するものでは、約2年前に出た「新成長戦略」*1が挙げられるかも知れません。そして、その後、3.11があり、「新成長戦略」の実施は著しく減速してしまいました。この5月10日の国家戦略会議でも、新成長戦略の成果は1割でしかないと指摘しています。*2

新成長戦略を受けて開始されたグローバル人財育成を目指す、文科省の事業の方針などを見ると、もし、仮にこれが実行され成果をあげれば、この分野での人財育成には大きな成果が上がるに違いないと考えたくなります。しかし、大学も、もし仮に、政府がやれと言うからやっているといった受け身の姿勢であるならば、たんに国家予算を右から左に遣い、その効果は大きいものとはならない気もするのです。

さて、話が逸れました。

国際教育交流分野において「グランド・デザイン」と言うときには、日本という国家全体と世界を視野に入れて考えなければならないことは自明のことですが、果たして現実はどうなのでしょう。

ここでも、中央官庁と国の予算とに関わることは、省庁縦割りのままにしか発想されない傾向がきわめて強いと言わなければなりません。

このブログでも何度も触れてきたように、「海外の日本語教育」(外務省・国際交流基金所管)、「日本国内の日本語教育」(文科省文化庁所管)、「日本の高等教育機関」(文科省高等教育局所管)、「日本企業・日系企業」(経産省厚労省等所管)の連携はほとんどできていないに等しく、その全体をオーガナイズする機能を持つところもないのです。関連分野として、少子化による労働力減をどう考えるか、移民についてどう対応するか、といったことも密接に関わってきます。

もちろん、このバラバラさ加減について行政を責めるのはお門違いでしょう。行政機関は、政府の方針に沿って仕事をするところです。

つまりは、この分野においても中・長期展望に立って「グランド・デザイン」を描く思想家や政治家が必要なのです。理念が必要なのです。

私たち関係者は、それがたとえ次の選挙の票には直接は結びつき難くても、国家百年の大計を考えて、それを考え、実行する政治家を育てていかなくてはならないのだと考えます。