「大東亜共栄圏構想」と「南方特別留学生」(1)


大東亜共栄圏」などと聞いて、ギョッとする人もいるでしょうけれど、ちょっとこれを振り返ってみたいと思います。もちろん、近年の「大東亜帝国」といった大学群のことではありません。

1938年(昭和13年)に、「東亜新秩序」という言葉が近衞文麿によって使われたのを端緒に、その後、1940年に近衞内閣による「基本国策要綱」について松岡洋右外務大臣が「大東亜共栄圏」という言葉を使ったと言われます。ちょうど、日本が英米に対して宣戦布告をする前の年に当たります。

当時、日本と満州および中華民国を一つの経済共同体とみなして、南方(現在の東南アジア)を資源の供給地域に、南太平洋を国防圏と考えたことから、この構想が生まれたというのが定説になっています。

当時の日本の言い分は、欧米列強の植民地とされてきたアジア地域の多くの国々を独立させ、日・満・支を中心とした国家連合をつくる、というものでした。

1943年の東京での「大東亜会議」には、ビルマのバー・モウ首相、満州国の張景恵総理、中華民国汪兆銘院長、タイのワイワイタヤコーン殿下、フィリピンのラウレル大統領、自由インド仮政府チャンドラ・ボース首班など、大東亜共栄圏内各国首脳が出席し、「大東亜共同宣言」が採択されました。

宣言には、「相互協力・独立尊重」などが記され、好意的に見れば、一つの地域共同体、今日のEUのようなものを目指したものと解釈することもできます。最近では似たものに「東アジア共同体」の構想があります。

しかし、もちろん結果としての客観的評価は、欧米列強のアジアでの植民地支配に替わる植民地化であったり、日本の傀儡政権による間接支配であったりといったものと考えられています。

欧米諸国、とりわけ、英米仏、あるいは、オランダ、スペインなどが歴史的に長いことアジアの富を収奪してきたところに、出遅れて進出した軍国日本が取った愚かな外交と侵略の行動であったとも解釈できます。

しかし、この「大東亜共栄圏」に見るべき点は何もなかったのでしょうか?

私は、その一側面ではありますが、「南方特別留学生」を、再評価してもいいのではないかと考えています。ここに、日本の留学生受け入れへのヒントが隠されている気がするからです。(つづく)

※ 写真は、シンガポール国立博物館に展示されている朝日新聞社「祝 シンガポール陥落」のポスター(1942年)