「大東亜共栄圏構想」と「南方特別留学生」(2)


大東亜共栄圏構想」に見るべきものはなかったのかと、ずっと気になってきました。

東アジアの新秩序建設のための生存圏をつくる、という発想で、中国大陸を核に、インド、豪州・ニュージーランドで囲まれた圏内での自給体制を構想したわけですが、それと戦争末期の軍国主義とが共鳴してしまったのが悲劇だったわけで、発想そのものは、今日のEU東アジア共同体構想と大きな違いはなかったのではないかと考えます。

日本の軍国主義は、もちろん、アジア諸国民や日本国民にも多くの犠牲を強いたわけですが、それまでの欧米列強の植民地政策とはまったく方向性の異なることも残しています。

台湾では、1944年には小学校への進学率が92%にまで上がりました。朝鮮半島でも、こうした傾向は顕著だったかと思います。

しかし、たとえば、英国は17世紀以降、チェンナイ・ムンバイ・コルカタ(旧マドラスボンベイカルカッタ)に商館を建設し、ここを拠点に貿易を本格化させ、交渉や戦いで土地を獲得し、次第に400年間の植民地支配を強めていきましたが、インド人一般の教育に力を入れることはなく、かえってカースト制度を助長して利用し、インド人自身の分裂支配を進めました。

あるいは、オランダのインドネシア支配でも、インドネシア人の教育には意図的に熱心ではなく、恵まれた一部のインドネシア人子弟をオランダ人学校にごく少数は入れましたが、インドネシア人の生徒は、どれほど成績が良くても60点以上は付かなかったことをスカルノ元大統領も記しているそうです。

そして、当初の目的のとおり、植民地のあらゆる産業からの富を収奪していったために、自然がきわめて豊かなインドネシアでさえも数万人の餓死者が出たということですから、そのすさまじさの一端が想像できます。

これに比べれば、上述のように、日本はアジアの若者たちの教育に力を入れたことは事実でしょう。

そして、趣旨はいささか違った方向に向かっていたとは言えるのですが、戦争末期の1943・44年に計205人の留学生を今の東南アジア地域から受け入れたのが、「南方特別留学生制度」です。

これは、当時の日本の支配地域の有力者の子弟たちを留学生として迎え、教育することで、たんに「大東亜共栄圏」の帝国支配の力を強めようと意図したものだったのでしょうか。しかし、もうすでに敗戦へ向かっていることは日本政府には明らかだった時期のはずですから、いったい何のためだったのかということが、やや不可解ではあるのです。

とにもかくにも、1943年6月末、第1期104人が来日し、日本語を学び始めたのです。(つづく)