「大東亜共栄圏構想」と「南方特別留学生」(3)

「南方特別留学生」については、ネットで検索してみるとお分かりのように、これまでいくつかの書籍、論文、あるいは取材記事の載った雑誌が出ています。

その中で、受け入れた当事者が記したものとして、金澤謹著『思い出すことなど』(1973年 財団法人 国際学友会)があります。

そこには、当事者としての偽らざる気持ちと事実が書かれているように思われるので、そこから、いくつかの部分を挙げてみましょう。

発端は、まずこうです。

1943年(昭和18年)2月の初め、国際学友会の何人かが大東亜省(当時)南方政策局文化課に呼ばれ、「南方に於ける陸海空軍の軍政地域で占領行政を行っているが、軍政当局と原住民の中間にあって、軍政の手助けになるような現地人の青年が必要になって来た。」「そこで最近になり陸海両省から大東亜省に対し、一か年間位の短期間に現地青年をそう云うように仕込んで貰いたいと要望してきた」。

様々な協議の結果、国際学友会は「マライ・スマトラ班」と「比島一般学生」の宿舎を引き受け、すべての留学生への日本語教育を行うことになりました。

そして、その年の6月末、第一陣50名を東京駅に出迎えます。留学生たちは、軍隊式にきびきびとして整列します。

「私は内心驚いた。よくもあれだけの訓練をしたものだ。しかし、あの眉の根一つ動かさず、「気を付けッー」の姿勢をしている彼等の眼はどうだ。希望の輝きと云うようなものはなく、何かおずおずと物怖じしているように見えるではないか?見かけは元気で活発そうに見えるが笑いと云うものがないではないか?この緊張した瞬間に笑いなどあるのがどうかしていると云われるかも知れない。しかし、どう見てもこれは軍隊そのものだ。大変なものを引受けることになったものだ。」

著者の金澤氏は、リベラルを自認する人でしたから、こうした時代に、軍国主義にどっぷり浸かった留学生の受け入れには非常に抵抗感があったことが、そこここに読み取れます。

時はまさに戦争末期ですから、もちろん日本語を習得した他には、ろくろく専門教育を受ける機会もなく、広島文理大に進学した留学生たちの中には被爆し、死亡した者もいます。そして、日本の敗戦とともに、ほとんどの留学生は帰国していきました。

私は、ずいぶん以前、被爆したうちの一人、インドネシアアリフィン・ベイ氏に話を伺ったことがありますが、当時すでに食料生産も間に合わず、日本人と一緒に校庭を耕して畑にして野菜を作ったということです。

彼は、つぶやきました。「堀江さん、戦争中、日本人の懐は寒かったけれど、心は暖かかったよ。戦後、日本人の懐は暖かくなったけれど、心は冷たくなった気がするんですよ……。」

ベイ氏は、日本人と結婚し、インドネシア大使館員となり、筑波大学テンプル大学日本校、神田外国語大学などで教鞭を執り、故国に戻ってナショナル大学の学長になり、昨年9月にジャカルタ近郊で85歳で亡くなりました。

なぜ、この「南方特別留学生」が特筆すべき留学生受け入れであったと私が考えているかというと、こうして戦時下の日本に、日本の都合で半ば強制的に留学させられ、まともな勉強も出来ずに、当時の一般の日本人と同様に苦労した計205人の留学生たちの多くが、戦後、東南アジアと日本とのパイプ役として育ち、社会で活躍した人たちを多く輩出したからなのです。

ブルネイの大統領になったフギラン・ユソフ氏フィリピンの駐日大使になったホセ・ラウレル氏マレーシアのハッサン・ラハヤ氏も広島で被爆しましたが、実業家となり国会議員を務めました。インドネシアのラデン・マス・スキスマン氏は、医師となり、ダルマ・プルサダ大学長に、同じくインドネシアヨガ・スガマ氏は陸軍大将となり、国家情報調整省長官に、といった具合に、輝かしいキャリアを重ねた人たちの枚挙にいとまがありません。

見渡すと、彼らの多くは、決して反日家にはならなかったと言えます。

それはなぜなのでしょうか?(つづく)