教育分野での「国際競争力」を高めるためにも日本語教育は重要

日本経済が元気だったころ、日本は海外の資産を買いあさり、日本人とはたいへんに傲慢な人たちだという印象を残したのかも知れません。でも、経済面で見れば、それは国際競争力があったということにもなります。ただし、その期間があまりにも短かったことは事実でしょう。

そして、経済力に比例すべき日本のインフラ整備はどうなのでしょうか。

日本の場合、都市のインフラ整備にしてもバランスを欠いていると思えます。例えば、東京のJRや地下鉄網はよく出来ています。しかし、電柱や電線が100年前と同じように東京の街の外観を醜くし、また、通行上、危険にしているのは、先進国では珍しい現象です。もちろん、道路の狭さも挙げられるでしょう。品のない色の看板なども街の美観を損ねています。

教育費の少なさも、OECD諸国中最低レベルであるというのも、インフラのお粗末さに加えられるでしょう。次世代の育成を怠っては、その国は、いずれ滅びます。原発に依存してきて、3.11以降の惨状を経験しても、ドイツのように潔く、原発は廃止するとの宣言を出せないのも政治の貧困の一つの象徴かも知れませんが、インフラの未整備につながる問題でもあるでしょう。

こうしたことを考えると、では、「30万人計画」を出した日本の教育面での国際競争力は、いったいどこにあるのかについても深刻に思わざるを得ません。

今日、日本の教育には国際競争力があると考える人たちは優勢ではなくなってきています。というのは、中国、インド、韓国を始め、多くのアジアの国々は圧倒的多数の留学生を英語国と欧州に出しているからです。

もちろん、じつは、これは戦後一貫した趨勢なのですけれど。ただ、一時、日本の教育に国際競争力があるように勘違いした人たちが若干いたことは事実です。

国際競争力をつけるために、英語での授業を増やすとか、ダブル・ディグリーを出すとかといったことが提案されたのですが、ごく一部の大学ではそれが可能でも、日本の大部分の大学にとっては、それはきわめて難しいことなのです。

日本に関心のある海外の学生なら、ある学問分野の概論は、留学前に、すでにやってきています。もっとやりたいのは、専門的な研究なのです。それを英語で教えられる教員は、残念ながら、それほど多いわけではありません。あるいは、そういった教員や研究者たちは、ノーベル賞受賞者たちなどを見ればお分かりのように、すでに海外の大学や研究所に引き抜かれていることも少なくありません。

ですから、日本に、そうした意味での国際競争力が、すべての分野にあるとは言い難いのです。

では、何があるか。

もちろん、日本の教育は捨てたものではありません。むしろ、世界に冠たる教育をしてきていると言っても言い過ぎではありません。その蓄積が日本社会をつくってきたことは事実でしょう。

ただし、やはり日本で教育を受けるためには、海外の人たちは、まず、日本語を習得してほしいのです。そうすれば、日本で受けられる教育の幅は、きわめて広がります。

その意味でも、海外でも国内でも、日本語教育にさらに力を入れていかなければならないと考えますし、海から外は外務省、国内は文科省文化庁といった線引きも撤廃しなければ、効率的な日本語教育は出来ないと確信しています。

国際教育交流に関わる人たちは、この点について、もっと冷静に、客観的に捉えるべきではないでしょうか。