日本の国際教育交流≪産業≫のぜい弱さを克服するには-1

一部の人たちの神経を逆なでする恐れのある表現を標題に2つ含めてしまいました。

まず、教育を「産業」呼ばわりするとは何ごとか、と保守的な人たちからはお叱りを受けそうです。つぎに、日本の国際教育交流が、なぜ「ぜい弱」なのか、と反発を覚悟しなければならないかも知れません。

「産業」については、次のように説明すべきでしょう。

教育は次世代を育てるものであり、神聖なものであるのだから、それと、人間生活に必要な商品やサービスの生産だの提供を行うためのさまざまな経済活動の一つと数えるのは如何、との質問があれば、人を育てるからこそ、そこに経済的にも無理があってはいけないし、そこに生産性がなくてはならないから、と答えましょう。

例えば、学校や教員のために際限なく支出出来る社会が、どこかにあればいいのですが、その財源は税金だったり、有限の資産だったりするわけですから、たとえ共産主義社会でも限度というものがあります。収支バランスは必要なのです。

したがって、教育に「産業」という言葉を使うのは決して不適切ではありません。

こうした議論は、米国では30年以上前にNAFSA(今日の「国際教育者協会」)などの場でよく交わされていたように記憶しています。

「ぜい弱」であることについては、日本に限れば、かなり説得力を伴って言えるのではないかと考えます。

1980年代後半、バブル経済真っ最中の時代には、「国際化」が流行り、全国に「○○国際交流協会」などといったものが出来ました。誤解を恐れずに言えば、「国際××」とは、当時の流行だったのです。

景気が良くて国や地方自治体は税収が豊かで、企業にも余剰金があったりで、メセナ活動も盛んでした。

ところが、バブル崩壊後、今日に至るまで、経済が停滞するにしたがい、世の中では「国際交流活動」も次第に目立たなくなり、日本の私たちの生活にとって不可欠なものとは言えないことが証明されてしまいました。

つまり、どうしても必要なものなら、たとえ景気が悪くなっても下火にはならないはずなのです。私は、「"国際交流"とは日本人にとって宝石をあしらったアクセサリーのようなもの。お飾りに過ぎない」と常々、思ってきました。もちろん、いわゆる「国際交流」が、という意味です。(つづく)