今日も新しい「岡倉天心」

恥ずかしいことだが、われわれの近隣諸国に関する印象は、大部分、ヨーロッパを出所にしているので、実際に歪曲の意図がなくても、おのずからヨーロッパ人の解釈によって潤色されている。外交官の恐るべき作り話、宣教師の胸も裂けんばかりの手管(てくだ)、就中(なかんずく)、文人旅行者の旺盛な想像力が、彼らの嫌忌感からする奇怪な色彩で、東洋を塗りつぶしている。 「東洋の覚醒」1901〜1902年(桶谷英昭訳) *1

文化文明について、西欧とアジアとの対比を110年も前に、こうしたきちんとした視点で書いているのは、やはり優れた文明史観を具えた岡倉天心ならではで、今日読んでも、ちっとも古いとは感じません。

最初に天心に触れたのは、学生のときに図書館で全集から拾い読みしたときだったかと思いますが、最近、ときどき再読しては、しきりと頷くことも多いのです。

私たちの文明史観も歴史観も、あまりに西欧の影響を受け過ぎてきてはいなかっただろうか、今の私たちのものの見かた、考えかたは、果たして本当に適切なのだろうか、無意識に偏ってしまってはいないだろうかと省みることも少なくないですから、ときに、岡倉天心の視点に触れることも無意味なことではないと考えます。

世界を見て、世界に触れて、天心自身も悩みながら、様々な思考を展開しました。もちろん、今日の世界に当てはまらないことも少なくはないのですが、彼の同時代人の誰よりも高い教養を身につけ、客観的に物事を観て、かつ、情熱をもって一つのイメージを示した彼の理想を知るのも、この時期、決して悪くはないでしょう。

*1:『東洋の理想 他』平凡社 ワイド版東洋文庫422