交流が進めば相互理解が深まる、とは限らない。

日頃、ここに書いていることと一見、矛盾するようですが、必ずしもそうとは考えません。

国際的、あるいは、異文化間の交流を促進することは大切ですが、それによって相互理解が深まるとは限らないのが現実です。

例えば、日本・中国・韓国の3国は、それぞれ隣接する国々でもあり、歴史的には儒教文化圏でもあり、漢字圏でもある国々の人たちが、交流が盛んになるに従って相互理解がさらに深まってきたかと言えば、必ずしもそうではなく、歴史的にも摩擦や衝突を繰り返してきたことはご承知のとおりです。

一般的に言って、隣国同士で仲が良いことのほうがめずらしいのではないでしょうか。近隣諸国との交流が進むほどに、摩擦や対立ばかりが生まれ、「近親憎悪」などと言われることもあります。

こうした、自らに近い、あるいは、似た者を忌避する傾向は、アジアに限らず、例えば、多数の国々がひしめく欧州にも見られます。現在は、欧州統合を目指して、様々な試みがなされていますが、長期的な視点で見て、果たしてそれが成功するかどうかは、まだ何とも言えないのではないでしょうか。

もちろん、その目標達成のための途方もない努力をしてきているわけですが、エラスムス計画*1のような高等教育の交流によって「欧州人」をつくろうという試みは、たいへんに意義のあるものだと考えます。

その意味で、東アジア圏あるいは、アジア地域全体の教育交流の実施もたいへんに重要です。もちろん、欧州統合の理念のように「アジア人」をつくろうというのは、現実をわきまえない飛躍しすぎた考えだと思います。アジアの人たちの多くは欧米を見ていたり、最近では中国を見ていて、アジア諸国が相互に関心を持ち合うという状況には程遠いのですから。

いずれにしても、「東アジア共同体構想」なども、はかばかしく進んでいる様子ではありません。

もし、政府レベルでの推進が困難なようであるのなら、教育交流の面では、大学などの教育機関が中心となって進めることも考えなければならないのではないでしょうか。ただ、欧州のように教育の共通言語を英語に統一してしまうことにはかなり無理があるように感じるので、アジア版では、この点を柔軟な考えに基づいて検討しないといけないかも知れません。

もちろん、高等教育機関だけが、その窓口ではありませんから、語学学校、青少年交流団体、地方自治体や地域の文化交流団体、あるいは、観光産業なども参加した交流プログラムを考えていいのではないでしょうか。

しかし、役所に頼る部分が大きい場合、ここにも省庁縦割りの壁が立ちはだかりそうです。自分たちでつくりあげてきた社会制度によって、自分たち自身の発想や行動が制限されてしまっているという皮肉な状況となってしまっているのです。

これを何とか早く変革しなければ……。