「異文化」と「自文化」を理解する

国際教育交流に関わる人の仕事をする基本姿勢として「異文化理解が大切」などと、よく言われます。その通りかと思います。

あまり難しく考える必要もないのですが、何かと言うと「異文化」という言葉が使われる気がするので、少し触れておきましょう。

「異文化」を含む言葉

よく使われる「異文化」を含む言葉は、「異文化コミュニケーション」とか「異文化理解」とかかも知れません。

「異文化コミュニケーション」という言葉は、"intercultural communication" または、"cross-cultural communication"という英語から来ているようです。以前は、「異文化《間》コミュニケーション」と言うことが多かったのですが、近頃は文化と文化には「間」があるのが当たり前ということで「間」は省くようになったそうです。

もともとは、米国の平和部隊が、世界のあちこちで活動する上で、その土地の文化を理解し、そこの人たちとうまく溶け込み、円滑に仕事をするためにはどうすればいいか、試行錯誤を重ねるうちに出てきた概念とスキルだったという話を聞きました。

今日では、海外に留学するにも、海外から来た人とおつき合いするにも、多国籍の組織で仕事をするにも、海外にものを売るにも、「異文化コミュニケーション」は必須のものと考えられています。「異文化コミュニケーション学部」という学部を設けている大学まであります。

「異文化に惹かれて北アフリカへの旅をした。」という人もいます。この場合は、「異文化」は魅力あるものと理解されています。

ぎゃくに、「あの人は私にとっては異文化だ。」といった使い方をする場合には、「異文化」は理解しがたいもの、自らの文化とは相容れないものとして捉えられています。

「自文化」の存在が前提

いずれにせよ、自らの文化とは異なる文化を「異文化」と呼ぶのですが、「《異》文化」と言う以上、「異ならない文化」=自らの文化、「《自》文化」が存在することが前提であるわけです。そして、異文化を理解するためには、自文化を把握していなければならないという理屈になります。

しかし、「自分自身の文化とは何か」を知るためには「自分自身とは何者か」を理解している必要があります。

「知彼知己者百戦不殆」は孫子の兵法の一つですが、もし、これが正しいとすれば、昔から戦いに負ける人も多かったことからして、自分自身とは何者であるのかをきちんと知り、自らをわきまえていた人は、案外少なかったのではないか、という推論も成り立ちます。

私は、このところ毎年、放送大学の面接授業(スクーリング)で85分×8コマの集中講義をしていますが、その授業のタイトルは「国際教育交流と文化理解」にしています。最初、「異文化理解」のほうが一般的で、通りがいいかとも思ったのですが、「異文化」と共に「自文化」も理解しないことには、意味がないので、たんに「文化理解」としたわけです。

自らの姿を客観視するのは難しい

ただ、自分を客観視することが誰にも難しいのと同様、実際に「異文化」について考えると同時に「自文化」も並行して考えるということは、なかなか難しい気もします。

そうは言っても、国際教育交流に関わる者でなくても、自らの考え方や、もの言い、態度などを、ときどき鏡に映したり、ビデオに撮ったりして、なるべく客観的に把握してみたいものです。ましてや、一国の政治をあずかる閣僚などは、異文化理解以前に、「オフレコだぞ」などと言わずに、発言や態度が他者にどう映っているのか理解しないとならないでしょう。