「華夷秩序」とアジア−(1)

華夷秩序」=「シナ中心主義」

華夷秩序」は「中華思想」と、ほほ同義に使われています。「華夷秩序」のほうが「秩序」という表現が含まれていて、その本質を表している気がするので、ここでは、こちらを使います。英語では、"Sinocentrism"なので、直訳すれば「シナ中心主義」ですね。

まず、「自分の国が世界の中心である」ということの表明に「中華」「中国」と名乗っていますが、英語やフランス語では「チャイナ」「シン」であっても、日本語で「支那」は差別語(?)になるというので、口にするのがはばかられるようになってしまいました。現在の中華人民共和国のあるあたりは、地理学的には「シナ大陸」なのですけれど。(ただ、面倒なので、私は通常、「中国」と呼びます。)

ズボンにも「チノ・パン」がありますが、これも「シナ」から来ています。「トウガラシ」はイタリアでは「ぺペロンチーノ」(=「シナ・ピーマン」)であることは、イタリア料理好きなら、ご存じでしょう。

ロシア語を調べてみたら、「キタイ」(契丹、つまり、少なくとも漢民族ではない歴史上の民族)になっているようです。

北京からは、これらにも抗議してきているのですかね……。

もちろん、日本という国名も「日のもと」「日、出ずるところ」ですから、どこにいても人間は世界の中心を自分のいるところと考えがちだということは言えましょう。

ちなみに、「アジア」も「日の出」の意味のアッシリア語「アスー」が、そして、「ヨーロッパ」は「日没」の意味のアッシリア語「エレーブ」が、それぞれ語源だとか。アッシリアでは、アジア方面から日が昇り、欧州方面に沈んだということでしょう。「日没なんて、沈む一方の良くないイメージだから"ヨーロッパ"の名称を変えよう、という意見は聞いたことがありませんが。

日本も東南アジアも「華夷秩序」の周縁部に

さて、例により、前置きが長くなりました。

ご承知のように「華夷秩序」の中心には、「天子」がいます。「天子」を中心に、同心円状に「内臣」、その外側に「外臣」、それを取り巻いて「朝貢国」があります。もし、3次元図で描けば、円錐形の頂点に「天子」、そして、「内臣」「外臣」「朝貢国」と徐々に下のほうに下がって広がっていくイメージでしょう。これが「華」の構造です。

そして、「夷」とは、そのはるか外側、周縁部にある国々や、そこに住む人々です。

北方には、「北狄(ほくてき)」と呼ばれる、匈奴鮮卑契丹、蒙古など。東方には、「東夷(とうい)」と呼ばれる、日本、朝鮮など。南方には、「南蛮(なんばん)」と呼ばれる東南アジアや南方経由で船で渡ってきた欧州の人々。そして、西方には「西戎(せいじゅう)と呼ばれる西域のペルシャ、アラブなどの国々や人々。

こうしたイメージが「華夷秩序」あるいは「中華思想」の基本をなすものです。

歴史的に見れば、日本や朝鮮半島は「東夷」という未開人の土地。東南アジアは、「南蛮」という野蛮人のいるところと見なされてきたわけです。

中心をなす民族は交替してきている

自分たちのいる中心から遠ざかるほどに文化・文明から疎遠になり、はるか離れると魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する世界になる、という考え方は心理学的にも分かりやすいのですが、じつは、その中心部をなす民族は交替してきているのです。

つまり、歴代の中国の王朝を見ると、中国全土を統一した漢民族による国家は、「漢」と「明」だけであって、一般に言われているだけでも、10〜12世紀の「遼」は契丹人によるもの。12〜13世紀の「金」はツングース系の女真族の王朝、13〜14世紀の「元」は、ご承知のとおり蒙古族の王朝、17〜20世紀の「清」は、ツングース系の満洲族の王朝でした。

他にも、諸説あるのですが、紀元前8世紀〜前3世紀の「秦」は、西方の遊牧民族であった西戎のひとつの羌族の王朝、6〜10世紀の「隋」と「唐」の王朝も鮮卑拓跋部出身貴族の楊氏と李氏によるもの(当人たちは漢族と主張しました。)、10〜13世紀の「宋」の趙匡胤は、トルコ系の突厥出身などとも言われます。

このように国家の中心をなす民族が次々と交代してきたにもかかわらず、その世界観を象徴する「華夷秩序」の概念が引き継がれ維持されてきたというのは興味深い現象です。

では、この世界観は、今日、どのような作用を周辺の世界に及ぼしていて、今日の国際教育交流の分野では、どのような現象が見られるのでしょうか。(つづく)