「平家、海軍、国際派」

たぶん、「海軍」が入っているので、戦前・戦中に言われた言葉なのでしょうか。あるいは、もっと前だったかも知れませんが、この三者に共通なのは、見た目は派手でカッコ良いのに、国内では弱く、主流になれない人たち、という意味でしょう。「色男、カネと力はなかりけり」というのと、どこか共通性もありそうです。

この反対は、「源氏、陸軍、民族派」ですかね。見た目は武骨で野暮でも、国内的には常に勝者となる人たちと見なされてきました。

どうも二元的な対立構造で単純化されていますが、まぁ、寄席の三題噺のようなものなので、分かりやすくしてあるということもあるでしょう。

しかし、今、こんな呑気なことを言っている場合ではなくなっていると思うのですが、やはり日本の現実は国内のことに注目が集まっています。必ずしも、震災や原発事故があったからということでもなく、以前からずっと、日本では国内のことが海外との関係よりもずっと大事なのです。そして、不思議なことに、その両者は、あたかも関連のないことであるかのように見なされがちなのです。

当り前じゃないか、と言う人もいるかも知れませんが、じつは、とうの昔に当り前ではなくなっているのです。

エネルギーのじつに96%、食糧の60%(カロリーベース)を海外に大きく依存している日本社会が、海外との関わりに目をつぶっていても、世界との関係という現実は何も変わってはくれません。ついでに、防衛も海外に大きく依存していると言えるでしょう。古今東西、そんな国がいったいどこにあったでしょうか。そして、そんな国が存立していけるのでしょうか。

ユーラシア・北米・太平洋・フィリピン海の4つのプレートがぶつかり合う縁に浮いて辛うじて引っかかっているような地震の多い不安定な国土と同様、エネルギーも、食糧も、防衛も、きわめて不安定な国が日本なのです。

そうしたことを改めて認識すると、国内と国外を海岸線で区切って考えてしまう日本社会というものは、ある意味、滑稽ですらあると思えます。

中央官庁が実態に合わない縄張りを有していると見ることも出来ます。

たとえば、日本語教育でも、海外では外務省・国際交流基金が、国内では文科省文化庁が所管し、国内の日本語学校は、(財)日本語教育振興協会という文科省法務省が所管する団体が認定事業を行ってきましたが、事業仕分けで認定事業は廃止とされ、今は、所管官庁が認定作業をするしかなくなっています。といって、中央官庁とて、今どき、人的に余力などあるはずもないので、これをどうするかが、今後、大きな課題となっていくことは必至でしょう。

海外に依存する部分が非常に大きい国が、文化政策をこのようにないがしろにしていては、ますます世界の中で萎縮していくほかはありません。

他の国の言語政策や文化交流政策を見ると、その国の重要な課題として、多くの国では国を挙げて取り組んでいるのですが、日本は、いったい、この先、大丈夫なのか、たいへんに心配です。