90歳の飲み友だちと敗戦の日

その90歳の男性の娘は私と同い年で、ハワイ島のコナで4000坪の土地の家に住み、広すぎるので、余った土地で3軒の大きな貸別荘を始めたということです。

彼は、私がよく行く近所の鮨屋のカウンターの一番端にいつも陣取っていて、お互いに顔は見知ってはいたのですが、常に座る場所が離れていたもので、昨晩、混んでいて、彼が私の隣の席になり、話しかけたら、そんな話をしてくれました。

彼の趣味は戦前からゴルフ。今も週に2日はゴルフをするそうです。戦争中は、陸軍の後方支援部隊で南方を転々としますが、とくに危ない目にも遭わず、スラータニー付近で8月15日の敗戦の日を迎えたとのことです。

娘はお嬢さま学校を出て米国の航空会社のCAをし、知り合った日系米国人と結婚し、ハワイに定住しました。婿どのは、マウナロア観測所の仕事をしているとか。孫たちは、米本土の大学を出て、一人は医者に、もう一人はエンジニアになっているとのこと。

そんな話をしながら、すっかり意気投合し(まぁ、たんに飲兵衛同士ということですが ^^;)、再開を約して別れてきました。

彼にとっては、東南アジアもハワイも米本土も日本も、特段、境界を感じていないような話し方でした。彼自身、育ちの良い、品のある顔立ちで、これまで苦労の少ない人生を歩んできたのかも知れません。もちろん、彼なりの喜びや悲しみを経てきたには違いないですけれど。

戦前から戦後にかけて恵まれた環境のうちに生きてきた一人の男性の話には、国境を意識させられることがあまりありませんでした。*1

そして、今日は敗戦記念日

「敗戦」を「終戦」とオブラートに包んだきれいごとに言い換えるような日本社会では、あらゆることの本質がぼやかされがちです。同時に責任の所在もはっきりしなくなります。

3.11も、そうしたプロセスを経て、きれいごとのうちに風化してしまうとすれば、これは許しがたいことだと考えます。出来ごとの本質を見極め、天災は出来る限り避け、人災は完全に防止しなければなりません。3.11からも学ぶべきことは多過ぎるほどあります。

そして、こうしたことには国境はないはずです。より多くの海外からの留学生に日本ができる限りの教育の機会を提供し、また、一人でも多くの日本人学生に海外に学ぶ機会をつくっていくべきなのは、日本が世界の中で孤立しないためにもぜひとも必要なことだと、敗戦の日に改めて考えるのです。

*1:8月16日に追加の聴き取りをして一部修正しました。