「カタリスト」の役割、再び

カタリスト=catalyst(触媒)とは、もともとは化学用語で、「それ自体は変化しないけれど、他の物質の化学反応の仲立ちとなり、反応の速度を速めたり遅らせたりするもの」のことを指します。

身近で分かりやすいものの例としては、酵素を触媒として糖からアルコールや乳酸を合成したものとして、味噌、醤油、酒などの発酵食品があります。どれも、酵素なしにはつくれませんが、酵素自体は前後で変化しません。

転じて、ある社会や文化が、ある人物によって変化、変容を促される場合、その人物も「カタリスト」と呼ばれることがあります。

社会が比較的静的で、変化、流動性が少ないときには、カタリストの役割はあまり脚光を浴びません。

しかし、例えば、1980年代後半からの「国際化」が急激に進んだ日本社会では、海外にルーツをもつ人たちの流入が増加し、国内でさまざまな問題や混乱が起きた時期、あるいは、同時に、海外に出ていく人たちの人数も激増し、海外で多様な困難と直面するようになったっとき、カタリストの活躍の場は急速に増えました。

当時ですと、言語の通訳であったり、文化と文化の仲介役であったり、日本社会からはじき出されてしまった海外出身者の支援者であったりというふうに、どちらかというと個人として活躍する人が多かったように思えます。

もちろん、それは、それまでそうした社会的システムと役割を担う人が、国レベルや地域社会にほとんど存在しなかったからです。

そして、90年代始めまでには、各都道府県や多くの市区には、「○○国際交流協会」といった自治体主導の組織ができ上がり、さまざまな局面でカタリストたちの活躍の場が、いわばお仕着せとしても用意されましたが、近年の景気の後退と税収減により苦しい状況になっているところも少なくはありません。

また、1995年の阪神淡路大震災を契機として、ボランティアの個人やNPOの活動が活発化し、当時、それは一義的には被災者に対しての支援活動をするものでしたが、次第にそれ以外の目的や分野にも広がり、社会的弱者を支援したり、あるいは、国と国、文化と文化の仲立ちをする人たちの存在が普通のこととなってきたわけです。

2011年も、残りあと3か月を切った現在、3.11の被災者の支援や原発問題の取り組み、あるいは、代替エネルギー開発の課題等々にも関わるようになってきた人たちもいますし、もちろん、社会的弱者であることが多い海外出身者への支援態勢も通常のこととなっている観があります。

こうした場でも、じつはカタリストの存在は貴重ですし、文化観、歴史観、価値観などの双方向のインタープリターとしての役割は重要であるのです。

もう少し視野を広く見てみると、これは「ノーマライゼーション」の一環と捉えることも可能です。「ノーマライゼーション」は、社会福祉分野で言われだしたことで、障害者と健常者が区別されることもなく、共に普通に社会生活を営めるのが正常で、本来あるべき姿だとする考え方なのですが、それを演繹すれば、民族、国家、文化、男女、ジェンダー、世代等々の違いがあっても、同じように区別なく、有利、不利の差もなく共に生活できる社会を実現するということにもなります。

その意味で、より広い目をもってものごとを見ることができる人間の養成は重要だと言えますし、海外に出てさまざまな体験をした日本の若者や、海外から日本に来て学んだり生活をしたりした若者の活躍の場も、今後、より大切になっていくはずです。

そうした人間の存在そのものが「カタリスト」として、これからの日本でも世界でも、ますます重要になっていくと考えます。